スポーツ医学とスポーツ現場をつなぐコミュニケーションブログ
 
長らくスリープしていました。

3.11の震災以来、どうもブログを書く氣になれなかったのです。
少し吹っ切れまして、また少しずつでもアップしていきたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。

去る8月15日は66回目の終戦記念日でした。
私は毎年この終戦記念日と大晦日は断食をしているのですが、今年はさらに水分も控えました。
朝は炎天下の中、高校ラグビーの練習に行っていたので、薄めのポカリを一口飲みましたが、その後は口をゆすぐだけにしました。
これは結構きつかったですね。。。
夜になると大きな声が出にくくなってました。

そして私が体験したものと比較にならないくらい過酷な時代
わずかな水と食料で生死をかけて戦っていた若い戦士らのこと
また3.11の震災で極寒の中、わずかな水と食料ですごされた被災地の方々のこと
に想いを馳せました。


今回からブログのタイトルを『直心是道場(じきしんこれどうじょう)』としました。素直な心をもって精進修行すれば天地到るところが道場であり修行の場所ならざるはないという維摩居士(ゆいまこじ)の教えです。

これは維摩経(ゆいまきょう)というお経の中に出ています。

昔、光厳童子(こげんどうじ)が閑寂の境に修行の道場を求めて城門を出ようとしていたとき、維摩居士が城に入って来るのに出会った。光厳童子が「どこからお帰りになられたのですか」と尋ねると、居士は「今、道場から帰るところです」とのことだったので、「それは耳寄りな話です。実は私は閑寂な道場を探しているのですが、居士が行かれた道場はどこにあるのですか、ぜひ教えてください」と言うと、居士は「道場は外に求むるに及ばぬ。直心是道場、虚仮なきが故に」と喝破されたという。

『直心』とは、正直な心、素直な心、誰でも生まれながらに持っている自然の心。

つまり何も特別に修行などしなくとも持っているものである。
これをなくさないでいれば良いわけである。
ところが現実には、わたしたちはこの本来あるべき自分の姿を見失っている。

体裁、地位、名誉、お金、こだわり、とらわれ・・・

本来の裸の自分にいろんな物をまとうようになり、身にまとった着物で自分を誇示せねば、生きられなくなった。
心の思いと行動が一致しなくなった。
また本来心に思うことを無理に邪な思いへと変えてしまうようになった。
そして知らず知らずのうちに、本来の自分がなんであるのかさえ分からなくなった。

『らしく生きる』のが『直心』であると言われる人もいる(剣道家 小川忠太郎範士)。
男は男らしく、女は女らしく、母は母らしく、父は父らしく、学生は学生らしく、教師は教師らしく、さらには日本人は日本人らしく・・・。

『らしさ』とは『かくあるべし』ではない。
『かくあるべし』に縛られるとまた苦しい生き方になるであろう。
父なら父としての自分の素直な氣持ちで、ありのままで、今置かれている状況に沿って生きる。
簡単な様で難しい事である。

『流露無碍』
水は方円の器に従う柔らかなものであるが、勢いを得ると岩をも押し流す。

人も自分に素直になったとき、その状況に対して柔軟になれるのであろう。
このケースはこうであるという決め付けでなく、その時その場の状況に喜怒哀楽をもって柔軟になることが『直心』であるのかもしれない。


ReCo代表 吉村直心
げんき整骨院
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