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         スポーツ医学とスポーツ現場をつなぐコミュニケーションブログ
 
月刊トレーニング・ジャーナルの創刊は以前書いたように1979年、月刊スポーツメディスンはそのちょうど10年後の1989年。ただし、月刊スポーツメディスンは27号まで季刊誌で、Sportsmedicine Quarterlyと言い、B5判128頁だった(28号からはA4変型判52頁)。

1979年、私はまだ28歳。今から思うと、はるか昔ではある。

トレーニングの世界から、スポーツ科学だの、スポーツ医学だの、科学や医学といった専門領域の先生にお会いし、話を聞き、原稿にまとめる。

私はと言えば、文系の大学なので、科学や医学の知識はゼロに近い。はじめのころは、英語の解剖学用語をカタカナで略したものがよくわからず苦労した(ペロだのガストロだのセミテンだのです。笑)。先生がたは当たり前に話すが、「なんのこっちゃ?」です。それが不思議にだんだんわかっていく。(日本語で“カンソク”と言われても、最初はわからなかった。「患側」という字をみて、なるほどねと思った。その程度だったのです)

では、どうやって覚えていくか。それにたいへん役立ったのが、先生がたの連載の編集および翻訳書の編集である。

翻訳書の最初は『ザ・スポーツメディスン・ブック』。そのものずばりのタイトル。

ゲーブ・マーキンというスポーツ医とマーシャル・ホフマンというライターの共著。日本では、多分医師の名前が著者として表記されるだけで、ライターの名前は「構成」くらいになるだろう。専門家とライターが共同で書き、ライターの名前も共著者として記されていることに新鮮な驚きがあった。

刊行は1981年1月。知り合いの翻訳グループに訳してもらったのだが、原文と照らし合わせていくと、もちろん妙なところは少なくない。当時、スポーツメディスンなどほとんどの人は知らないし、英語の辞書を引いても、的確な訳語はまだ載っていない。医学英和辞書も同様。訳すほうも、わけがわからなかったところも多かっただろう。それを多分こうだろうと思い、修正していく。しかも、その作業は原稿用紙に書かれた原稿に赤ペンで赤を入れることになる。

それを監修の先生にみていただく。監修は、石河利寛、窪田登、黒田善雄、鈴木慎次郎(故人)、中嶋寛之の5先生。錚々たる顔ぶれ。28歳の若造が、よく知らないものだから、平気なツラでお願いに行き、ああだこうだと言っていた。Jet lagという言葉が出てきて、鈴木先生が「これがわからない」とおっしゃり、文脈から「多分、時差ぼけのことではないでしょうか」と応え、「ああ、そうか」と納得していただいた。専門書というより、一般の人にもわかるように書かれていたので、専門家の先生には見慣れない表現も少なくなかった。しかし、よくやったなと思う。権威を前に、「こうじゃないでしょうか」と言うのだから、“こわいものしらず”と言うしかない。

このあともしばらく翻訳書が続く。日本で書いていただくより、当時はすでに出ているアメリカの本を訳して出すほうが早かったということもある。

当時、スポーツ医学の本はまだ数少なかった。勉強したいと思っても、今のようになかなか本はなかったのである。そういう事情もあって、この本はよく売れた。今では信じられないが、累計1万部以上になった。

この本を出したこと、また当時アメリカで出ていた“the physician and sportsmedicine”という雑誌の影響もあり、一般的なsports medicineではなく、sportsmedicineと1語で捉えるようになっていた。しかし、これは単に表記上の問題ではないと思うようになる。(清家輝文
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