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最近読んだ本で一番面白かったのは「古代中国の文字から身体感覚で『論語』を読みなおす」。能楽者で公認ロルファーという安田登さんの最新の書(春秋社、1700円+税)。

帯には、あの松岡正剛氏の「この10年で出会った、最も驚くべき異才である。ここには、日本とアジアをつなぐ核心が、多様に躍如する。」とある。

安田さんには、東大でのシンポジウムで一度お会いしたことがあり、そのときは夏目漱石の夢十夜から第三夜を能の謡から始め、第三夜を朗読していくのだが、まさに目の前でそのことが起きているような迫真のもので、いたく心を動かされた。

その「心」であるが、孔子が生まれた時代のわずか500年前に誕生した漢字だそうだ。つまりそれ以前は「心」という概念がなかった-。

じゃあなにがあったのか。「命」ということなるが、この「命」という字は「令」と「口」からなっている。命は天命・運命で逆らえない部分、一方「心」(シン)は命をも変える自由意志。

しかし「心」が生まれたことで、人は悩みや惑いなどを抱えることになる。そう「悩」も「惑」もみな「心」がついている。

孔子の言行録である『論語』はその「心のマニュアル」ではないかと安田さんは記している。

論語をまったく知らない人はいないだろう。たとえば「不惑」。「四十にして惑わず」で、40歳になればもう惑うことはないという意味とされるが、どうもそりゃ無理だろうと誰でも思う。そんな自慢気なこと、孔子さんが言うだろうかと安田さんもいぶかしく思い、調べたところ、「惑」という字は孔子の時代にはなかった。

「惑」から「心」をとったものはあった。しかも音も同じ。ということはその字ではなかったか。

もしそうなら意味が全然違う。その字、つまり「或」なら、限定するという意味になり(囲めば、国の旧字、土偏をつければ域ですね)、四十になれば、「自分はこんなもんだ」というように自分の力や可能性を限定しがちなものだが、そうしないようにしましょう。まだまだですよという意味になるとか。

ここまでは導入程度です。この本の面白さはまだまだ。文句なしにおすすめします。(清家輝文)

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